2008年7月6日日曜日

角を矯めて牛を殺す


角の形が変だからと、それを矯正しようとして、
牛を殺してしまった … ということわざ。

目先の、目に見える「問題」を解決しようとして、
結果として、すべてをダメにしてしまうこと…、
そういうことって、意外に多いのかもしれない。

スペインだったかの世界遺産の落書きで処分されているが、
当のスペインでは、新聞の1面で驚きの声をあげている。
問題であるかないかと言えば、問題だろう。
でも、その問題を起こした状況の把握は?
状況把握と、問題を起こした人のことを把握して、
はじめて処分があるべきだと思う。
教会からの訴えもないなかで、
「落書きは悪である」「世界遺産である」「学生だ」「先生だ」…処分しなきゃ…。
処分を決めた人たちが、どれだけ立派な人かはしらないが、
学生や先生の人生を大きく左右しかねない処分を課すに値することととらえているのか?
人を見ずに、正論を掲げて騒ぐ人たちへの対応として処分したなら、
何のための学校なんだろう…と。
人を育てるのが学校の仕事なんじゃないのか?

だれの目にも見える「問題」なんだろうけど、
その「問題」の解決のしかたを誤り、
将来を奪ってしまうことが正しいのかどうなのか…?
ヒステリックな対応をする社会になったもんだと思います。
「生きづらい社会」をつくっているのは誰なんだろう?

※訂正 スペインではなくイタリアのようです。

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